お台場の歴史~開国から明治・大正~公園として残る国指定の史跡

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かつては”品川沖”という海だったお台場。
ペリー来航で人口の島として埋め立てられ台場が築造。
現在、観光スポットとして脚光を浴びるお台場の開国以降の歴史を紐解いていく。
第三台場跡地

第三台場跡地


一度も使われることがなかった台場

台場に砲台は十字砲火に対応しており、敵船を正面から砲撃するだけではなく、側面からも攻撃を加えることで敵船の損傷を激しくすることを狙ったものである。
8ヶ月の工期で建設され佐賀藩で作らせた洋式砲を据えた砲台だが、政府の方針が変わり日米和親条約が締結されたため使われることは一度もなく開国することとなった。
その後、台場は造船所として利用されたり、灯台が設置されたりなど当初とは異なる目的で利用されてきた。
第二次世界大戦後には、戦災孤児の収容所が造られている。

台場跡地

台場跡地


現在も残る砲台の跡地

建設時には11あった砲台のうち、殆どが埋め立てられて失われてしまった。
現在は台場公園として開放されている第三台場と、他の埠頭などとつながっていない第六台場が残されている。
高さ約5~7メートルの石垣の上に土手が築かれ、兵舎の礎石が残る。
文献によれば、36ポンド砲が配置されていたという。
当時、完成した台場の防衛は江戸湾の海防を担当していた譜代大名の川越藩(第一台場)、会津藩(第二台場)、忍藩(第三台場)の3藩が担った。

第三台場(台場公園)


第六台場


年表:開国~明治・大正

1854年~ 完成した台場の防衛を江戸湾の海防を担当していた譜代大名の川越藩(第一台場)、会津藩(第二台場)、忍藩(第三台場)の3藩が担う。
1875年(明治8年) 海上の7つの台場が陸軍省の所管となる。
明治中期には東京湾要塞の建設が始まったこともあって台場の重要性が減り、以後徐々に払い下げられることとなる。
1878年(明治11年) 芝区の成立に伴い、海上の7つの台場(第一 – 第七台場)は芝区に所属し、それぞれ東京府芝区大字品川沖1 – 7番地となる。
大正の初めまでに町名の品川沖は品海砲台に変更となる(詳しい時期は不明)。
1912年(大正元年) 第四台場が民間人に払い下げられ、造船所となる。
1915年(大正4年) 第三台場・第六台場が東京市に払い下げられ、史跡公園として整備され国史跡に指定される。
1917年(大正6年) 第一台場が民間人に払い下げられる。